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夷隅町の民話・夜泣き地蔵                       (73) 

....................夷隅の民話夜泣き地蔵

民話ツワー
 5月19日、「夷隅民話の会」の御一行は、千葉県夷隅郡内をバスでめぐる「民話ツワー」を催されたが、私は思いがけずに、たいへん丁重なお誘いを受け、メンバーに同行させていただくことになった。
 「夷隅民話の会」の会長・斎藤弥四郎先生は、夷隅地方の民話を集め、編纂されており、私もこのブログ・「閑報」で、「犬神様のたたり」や「お竹・勘十郎」など、いくつかの民話を使わせていただいている。また、明治7年の大暴風雨で倒壊してしまった御宿小学校の校舎を再建するために、御宿村850戸の住民たちが、当時の伊藤校長の指導のもと、5厘の日掛けを7年間続け、ついに校舎を再建したというたいへん感動的な話を伺うため、御宿小学校の校長をやっておられた斎藤弥四郎先生をお訪ねしたこともある。この話は、2010(平成22)年6月の「閑報」で、「五倫黌――御宿小学校」のタイトルでご紹介した。

 斉藤先生の引率のもと、8時40分、私たちは大多喜町町民文化会館を出発。国道465号を大原方向に東進、最初の目的地である旧・夷隅町(現・いすみ市)の夜泣き地蔵に向かった。そこに着くまでの車内では「民話・夜泣き地蔵」が朗読され、私たちの心をそこへといざなっていた。


夜泣き地蔵
 夷隅町、増田と行川(なめかわ)の境に小さな川が流れている。この川近くに「夜泣き地蔵」と呼ばれる小さな祠(ほこら)がまつられている。この祠には次のような話が伝えられている。

 むかしむかしのことだ。京の都の戦さで負け、この地まで落ちのびてきた夫婦がいた。身分の高い人らしく、錦の着物を身につけていたが、長い逃亡生活に錦の着物も、汗と泥にまみれていた。夫の顔は無精ひげにおおわれ、左足に傷を負い、足を引きずっている。妻は頬(ほほ)がこけ、よごれた長い髪は風に乱れ、乳飲み子を抱いていた。

 「もう一歩も前に進むことができません」
 「なにを申す。都からこの辺境まで逃げ延びてきたではないか」
 「……..この3日間、満足に食べ物さえ口にしていません。赤ん坊もおなかをすかせて泣いてばかりいます」
 「……………」
 妻の言葉に夫はだまってしまった。あたたかな春の風に小鳥の声がきこえてきた。2人はだまったままだった。

 妻が青空に映えた桜の花を見ながら、口を開いた。
 「都も桜の季節でしょうねぇ」
 「ああ、都の桜も咲くころだね」
 「……..都の生活……..楽しかったです」
 「ああ、楽しかったね。おまえと過ごした都での生活、今は夢のようだ」
 「あなたと初めてお会いしたのは、ちょうど、このような春でしたね。……..新録におおわれ、桜がさき、小鳥が鳴き……..」
 「わしも、君に初めて会ったのを、きのうのことのように思い出すよ」
 「まあ、うれしい。あの日のことおぼえていらっしゃいますか……….」
 「若菜をつむ君の姿、美しく可愛かったねぇ。わしはその日以来、君のことが頭からはなれなくなったのじゃ」
 「私こそ、あなたさまの凛々(りり)しいお姿を目にしたあの日は、眠れませんでした」
 「ははは……..そうだったのか、うれしいことを言ってくれるのぅ」
 二人は遠い都での生活を思い出し、しばし疲れを忘れていた。都の話ははずんだ。はじめて二人が出会った桜の春、水遊びをした夏、紅葉狩りの秋、嵐山の雪……..。
 二人の顔はうっとりとしておだやかであった。
 ………………..

 ……..時が流れた。
 「都に帰りましょう」
 「都に?」
 「そう、都にです」
 「……..敵が……..」
 「敵」という言葉に現実にもどされ、顔はけわしくなった。
 また沈黙がつづき、小鳥の声と川音と春風があたりを支配した。
 ………………..
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千葉県いすみ市と大多喜町
 
  妻が口を開いた
 「都に帰りましょう」
 「帰ろうか………..」
 「……..このまま死んだら、魂になって都に帰れるでしょうか………それも二人が出会ったあの都に……….」
 「二人が出会ったあの時代に……….」
 「楽しかったあのころに……….」
 ………………..
二人の声は涙声にかわっていた。
 「帰りたい。もう一度帰りたい、都に……..あなたと出会ったあのころに……」
 突然、妻が泣き叫んだ。夫は妻を抱いた。二人は泣き続けた。

 やがて、赤ん坊の泣き声で、二人はわれに返った。
 「この子をどうしましょう」
 「二人のために赤ん坊の命をうばうことは………..」
 「どうすればいいんです」
 「……………」
 「三人一緒に死んだほうが幸せです」
 「いや、この子にも生きる権利がある……….この子は生かしてやりたい」
 「………そうですね。このような桜の美しさも、この子はまだ目にしたことがなく、私たちのような恋も知らないのです。この子の人生はこれから……..」
 「……………」
 「この橋のたもとに置いておけば、通りがかりの人がひろって……..育ててくれるのでは………..」

 妻は着物をぬいで赤ん坊をつつんだ。そうして胸から紅(あか)いお守り袋を取り出すと、赤ん坊のふところに入れ、赤ん坊を草むらの上にそっと置いた。
 二人は、手をとりあって、近くの川に入って行った。
 桜の花が、はらはら散った。

 その後、残された赤ん坊は、大多喜城下に向かっていた旅人に発見されたが、やせおとろえて亡くなっていた。
 不思議なことがおこったのは、その後だ。日暮れに、この橋を通ると赤ん坊の泣き声が聞こえてくるという。野良仕事を終えてかえってくるお百姓さん。今夜の宿を求めて足早に急ぐ旅人が哀(かな)しげに泣く赤ん坊の声を聞いたといううわさがひろまった。
 「あの泣き声は捨てられた赤ん坊のなげきだろう」
 「ほんとうにかわいそうに」
 ……..とあわれんだ。
 「赤ん坊を弔(とむら)ってやろう」
 ということになり、橋のたもとに小さな祠(ほこら)を建てて、冥福(めいふく)を祈った。それ以来、泣き声は聞こえなくなった。その後もここを通る人たちは赤ん坊の冥福を祈った。
 「赤ん坊があの世に行くには、三途の川という河原を渡らなければならないという。その時、小石を積み上げながら渡るという。しかし鬼がじゃまをして小石の山を崩していく。そこで、現世の人が小石を積んで、赤ん坊を助けようとする」
 という言い伝えがある。それで祠のそばには小石が積み上げられた。
 やがて、野良仕事で疲れて帰って夕食のしたくをし、夜なべ仕事をする農家の女たちが夜中に赤ん坊が泣いた時に
 「赤ん坊よ、野良仕事で疲れているんだ。せめて泣かないでおくれ」
 という願いから、祠のお参りをするようになったという。この祠をおがむと不思議なことに、火のついたように泣いていた赤ん坊も泣き止んだという。今も祠は「夜泣き地蔵」とよばれ、道ばたに祭られている。  お し ま い


夜泣き考
 夷隅町(現・いすみ市)が建てた夜泣き地蔵の説明板には、「昔から小児が夜泣きして困るとこの祠にもうで、小石をいただき、小児の枕の下に入れると夜泣きが治ると言い伝えられ、夜泣きが治ると、小石を二つにして返すならわしがある」と書かれている。文章は全体を通じて、何と「現在形」である。このことから、この風習は比較的迷信から遠ざかった現代社会にあっても、いまなお有効であり、夜泣き地蔵は健在だということがわかる。

 夜もかなり更けたころ、寝ているはずの赤ん坊が突然けたたましく泣き始める。すると大抵の母親は、赤ん坊を抱き上げてお乳を含ませようとする。しかし赤ん坊は乳を受け付けず、泣き止むこともない。おむつも汚れていないし、体のどこかに異常があるわけでもない。なぜ、泣くのか、原因がさっぱり判らない。無意味だと思っても、おしゃぶりを持たせ、体を軽く叩いたりしてあやす以外にない。しかし赤ん坊はますます泣き叫ぶ。泣きたくなるのは母親のほうである。思い余った母親たちは夜泣き地蔵に通ったのである。

 実際、赤ん坊の夜泣きは、昔から今に至るまで、世の母親たちを悩まし続けて来た。私たちは夜泣きによって、母親に多大な迷惑をかけてきたが、そのようなことを覚えている人はいない。また、泣くということは、当然、原因があるわけだが、なにしろ、夜泣きは生後2ヶ月頃から1歳半頃にかけて起こることなので、赤ん坊自体もまだ言葉を知らないし、自分が今泣くにいたった理由を母親に説明することもできない。そのことが、今日にいたるまで、夜泣きの原因を判然とさせてこなかったのである。
 夜泣きの現象は、日本人固有のものであって、諸外国人や種族にその例を見ないとされているが、実際には、諸外国、種族において夜泣きが皆無であるとはいえないと思う。ただ、日本のように問題になっていないのである。
その一例として、英語には日本語の「夜泣き」に該当する単語がない。Baby-colic という言葉が「夜泣き」の意味に当てられている例が多いが、colic そのものは「さしこみ」とか突然の痛みである「疝痛」(せんつう)のことなので、「夜泣き」をBaby-colicと訳したのでは、日本語の真意は伝わらない。
 諸外国人や種族に夜泣きに悩まされる例がないとすると、夜泣きは、私たち日本人が生まれてきて、最初に培わされた、或いは、形成させられた国民性ということになる。夜泣きは、文字通り「他に比類なき民族の特質」なのである。
 従って、夜泣きはもっと重視され、研究を深めさせなければいけないのではないだろうか。
 昭和20年代、私は赤ん坊の夜泣きが、日本人独自の現象であるとともに、日本人の栄養不足や偏りが原因らしいという話を聞いたことがある。しかしその後、日本人の食糧事情は大いに改善され、「飽食の時代」とまで言われるようになったが、夜泣き地蔵は相変わらず現役として活躍し、周辺に積まれる石の数も、一向に減る様子がない。
 当然、原因は他に求められなくてはならない。
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路傍の夜泣き地蔵(国道465号線)画面をクリックすると拡大します
 

 夜泣きの原因は、まだ、完全には解明されていないというが、最近、一応、これが定説だろうという考えによると、生まれたばかりの赤ん坊の生活は、母親の胎内にあったときの延長で続けられているので、昼夜の区別がない。従って赤ん坊は昼夜の別なく、寝たり起きたりを繰り返す。
 ところが、生後2~3ヶ月すると、赤ん坊は、自分が明るい時間と暗い時間とを繰り返しながら生きていることを、肌で感じるようになる。「光」そして「明るさ」は、赤ん坊が新しい環境を知覚した重要な情報である。赤ん坊の脳は新しい情報である「明るさ」を頼りにして、1日の生活リズムを作り始める。しかしそれはすぐには完成しない。つまりこの時期の赤ん坊は睡眠サイクルが不安定で、とんでもない夜中に朝と勘違いをして目を覚まし、自分の感覚と周囲の状況が全く違うことに驚いて泣き出してしまうのだ。
 夜泣きの原因のひとつは、赤ん坊の体内時計が未発達なことである。
 また、以上のような赤ん坊の成長の過程を見ると、夜泣きは、入眠時、または、入眠に至るまでの泣きではなく、入眠後に目を覚まして泣く行為であることがわかる。
 ところで、まだ、体内時計が出来上がっていない赤ん坊のために、周囲の大人たちはどのような手助けをしたらいいのだろうか?
 昔から夜泣きといえば宇津救命丸なので、同社のホームページをのぞいて見ることにした。
それによると:
1、日中、家の中ばかりいるとストレスがたまるので、適度に散歩に連れ出すこと。しかし、人ごみは赤ん坊が興奮状態になり、夜泣きの原因になるので連れて行かない。
2、昼間、あやし過ぎたりかまい過ぎたりせず、余り声を出さないで笑顔だけで接してみること。
3、昼寝の時間をきちっと決め、長く寝かしたり、遅く昼寝をさせないようにする。
4、就寝前に入浴をさせると効果がある場合もある。
5、就寝前にあまり遊ばせない。
 とある。
 要するに、赤ん坊を興奮させたり神経を過度に使わせることが夜泣きにつながるというのだ。
 赤ん坊が眠りについた時間に父親が外から帰ってきて、ひとしきりあやしたり、ご機嫌を取り結ぶという生活パターンが、どこの家庭にもあるようだが、こういう行為が、赤ん坊にとって、最悪の夜泣き誘発行為になるらしい。
 何としても、赤ん坊の夜泣きを防ぎ、家族全員が安らかに眠りたいものである。
.............................◆......................
 私たちはバスの中から夜泣き地蔵を眺めたあと、次の目的地である大原・山田の尾骨(おほね)神社に向かった。          お し ま い


参考資料:斉藤弥四郎 夷隅の民話 夜泣き地蔵
      宇津救命丸H.P

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●一茶は紙幣を使ったか?
面白く拝見.ふと思ったのですが,当時紙幣はあったのでしょうか?
手紙にお金を入れてとあったので...
おれでだって何万句もつくれば,なかには傑作が一つくらい紛れ込むかもしれない,などと妄想しました.
新山

●寂しい一茶の句の背景がわかった
小林一茶といえば、「我ときて 遊べや 親のない雀」、「めでたさも 中位なり おらが春」くらいしか知りませんでした。
今回の「閑報」を読んで、これらの句の寂しさも分かってきました。3歳で実母を亡くし、継母と上手くいかず、奉公にでてから俳句修行。3度も妻をめとり、最後は中風で亡くなったという哀しい人生。スポンサー無しには俳句を続けていけなかったのは、「萬祝い」の絵師達と一緒ですね。「小言いう 相手のほしや 秋の暮れ」、「秋の風 わが参るのは どの地獄」。 こんな句が身に染みるのは読み手の歳のせい? 
CAMPESINA

●よく調べて書いている
 長野の多賀です。当地の一茶がテーマなので、ただちに拝読。よく調べて書いておられ、面白く参考になりました。地元紙が継続して一茶を取り上げていますので、いずれ送ってやりたいと思いますがよろしいですか。

●初めて知った一茶、房総との深い縁
 一茶が房総に深い縁があったとは初めて知りました。俳句も武家以外の資産階級に親しまれていたのですね。房総に一茶の支援者が居たとは一茶も遠方まで通ったものですね。
我々が教科書で習った範囲では信濃の藁ぶきの家で一茶が雀に餌をやっている挿絵であり、信州の俳人と思っていました。
ネットでも一茶のことがいろいろ載っていますが浦松さんの記事は講談調で面白く読ませてもらいました。ありがとうございました。  谷口

●初めて知った一茶と房総との関わり
一般には知られていない、小林一茶と房総の関わりの話を、とても興味深く読ませて頂きました。
有難うございました。大井啓男

●面白かった一茶の上総遠征のエピソード
「一茶のおじさん、一茶のおじさん、あなたのおうちは何処ですか?」という歌があって、子供の頃、北信出身の父がお風呂で歌ってくれたものです。野尻湖の近くの《一茶記念館》にも行ったことがあります。私が行った当時は、昔の農家の様子を展示する部分が多くて、「俳人一茶を知るには、その生活を知るべし」とでも云うかのような記念館でした。でも、亡くなった翌年に子供が生まれたというエピソードを聞いた印象は残っていませんでした。
「やれ打つな 蝿が手をすり 足をする」
小林一茶と云えば、迷惑なハエにすら優しさを向ける、奇特な人・・というイメージを持っていましたが、取り繕うことなく、自然を自然とし、開き直る部分さえあったのでしょうか?
 そんな一茶の上総遠征のエピソード、面白く読ませて頂きました。
中山育美

●一茶と千葉の関わりの深さを知って驚いた
一茶を支えた人々を拝読しました。一茶と千葉とのかかわりの深いことを知って驚きました。一茶没後のお話し、一句どころか二の句も継げなかったくだりは浦さんらしい洒落がよく効いていましたね。それにしてもなかなかの名文、恐れ入りました。当方はいたって元気ですが、地元老人会(シルバークラブと洒落ていますが)の世話役を引き受け連日大変な思いをしています。またJCOMの回線不良でしばらくメールのやり取りができませんでした。返事の遅れましたことをお詫びします。
ところで木更津に「一茶庵」なる蕎麦屋があり、ここの蕎麦は絶品です。
川本 憲男

カテゴリ: 「波の伊八」など房総の美術

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