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官軍のお先棒をかついだ男たち(61) 

ーーーーー官軍のお先棒をかついだ男たち

慶應3年暮(1868)、江戸・三田にあった薩摩藩の江戸屋敷が焼き討ちにされた。幕府の命によって江戸の警備に当たっていた庄内藩が襲撃したものあって、それでなくても、緊張が高まっていた幕府と薩長との間は、この事件によって、一挙に一触即発の状況に達し、鳥羽伏見の戦いの引き金となった、そしてそれはやがて戊辰戦争へとつながっていった。
 庄内藩が薩摩屋敷を襲ったのは、警備の藩兵が詰めていた屯所が、市中を横行するならず者たちに襲撃されたからである。このとき、ならず者たちは屯所に銃弾を撃ち込み、使用人1名を死亡させたが、反撃されると薩摩屋敷に逃げ込んだ。
 この時期、江戸市中およびその近辺では、これらならず者たちによる放火や略奪、暴行などが相次ぎ、治安は乱れに乱れた。
 この騒乱の百鬼夜行ぶりを、もう少し詳しく見ると、慶応3年11月末には、竹内啓(たけうちひらく)を首魁とする150名の一団が下野(しもつけ:現在の栃木県)から江戸に向かって行進、江戸に着くや、幕府方の藩兵と交戦した。しかし彼らはすぐさま鎮圧され、敗残の数名は薩摩屋敷に逃げ込んだ。
続いて相模、荻野山中藩の大久保教義の陣が襲撃されたが、撃退された襲撃者が逃げ込んだ先も薩摩屋敷であった。

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渋谷総司の出身地、現在の千葉県鎌ヶ谷市
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 当然のことながら、薩摩藩に対して疑念が生じ、屋敷の周りには幕府方の警備の目が光ることになった。そのようなさなか、同年12月20日の夜には、鉄砲と槍で武装した50名が屋敷の裏門から外に出て来た。これから富豪の屋敷に押し入って「御用盗」を働く計画だったというが、外の警備を意識した、いかにもこれ見よがしの行動であった。当然、警備の兵に追跡され、これもまた当然、薩摩屋敷に逃げ帰った。
 そして庄内藩・屯所への襲撃であり、それに対する薩摩屋敷の焼き討ちであった。

 暴徒たちの動きから判るように、これらの騒乱事件を仕組んだのは薩摩藩であった。
 かねてから、薩摩藩は長州藩とともに、武力によって幕府を倒すことを画策していたが、同年10月、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出たため、すっかりあてがはずれてしまった。武力行使の大義名分がなくなってしまったのである。そこで薩摩藩が考えたことは、江戸およびその周辺でコチョコチョとした事件を次々にひき起こして幕府を挑発することであった。腹を立てた幕府側が先に薩摩を攻撃すれば、それをいいことに武力倒幕の口実ができるというわけである。庄内藩がうまくその罠にはまってくれた。
 しかし、天下を変え、社会を根本から一新しようとする壮挙のわりには、薩摩藩の考えは余りにも姑息であった。
 ところで、この乱暴狼藉を担当した者たちについて、歴史書の多くは「薩摩浪士」と書いているが、これは正しくない。
 竹内啓が率いた一隊は下野から出てきているし、庄内藩・屯所を襲撃したのは下総・南相馬郡椚木(くぬぎ)新田(現在の茨城県取手市)の相楽総三(さがらそうぞう)や同じく下総・小金佐津間村(現在の千葉県鎌ヶ谷市)の渋谷総司(しぶたにそうじ)であった。いずれの騒擾にも、薩摩藩の者は表に出てこない。
 しかも相楽総三は裕福な郷士の四男。郷里での莫大な資産をもとに江戸・赤坂にも広大な土地を持ち、総三自身は赤坂で生まれている。一方、渋谷総司は名主の次男であった。
 竹内については省くが、相楽は天保10年(1839年)、渋谷は弘化3年(1846年)に生まれた。黒船が来航するのは嘉永6年(1853年)のことである。
 彼らは順調に発育したが、それに反比例して、当時の幕府の権威は衰退の一途であった。そうなると各地で倒幕の火の手が頻発した。関東では、それが筑波山での天狗党の旗揚げであったり、赤城山の慷慨組(こうがいぐみ)の決起であったり、九十九里の真忠組の反抗であったりした。
 これらの討幕運動は豪農の子弟が中心になっており、草の根から生まれた志士という意味で、草莽(そうもう)の士と呼ばれた。
 相楽総三はこのような草莽の士の一員として、元治元年(1864年)の天狗党や慷慨組に参加したが、彼らと意気投合とまでは行かなかったようである。
 渋谷総司は安政年間(1854~59)に、江戸の千葉三郎道場で剣の修業をし、文久3年(1863年)には諸国遊歴に出たが、その目的は「尊皇攘夷」を掲げる「憂国の士」との出会いであった。
 慶應3年(1867年)10月、相楽総三の“理想を掲げた呼びかけ”の文に感動をおぼえた渋谷は、言われるままに薩摩藩の江戸屋敷に入り、「屯所糾合隊使番」という役に任ぜられ、“倒幕活動”を行うことになった。
 同月、彼らは西郷隆盛と会い、何事か密談を交わしたが、そのあと1ヶ月余りで約500名もの人員を集め、江戸市中で引き続き“倒幕活動”を展開した。
 その“倒幕活動”なるものは、放火、喧嘩、略奪、押し込み強盗、婦女暴行などの繰り返しであり、巷のならず者のやることに、何らヒケをとるものではなかった。しかし彼らはそれが日本に夜明けをもたらす倒幕活動であると、固く信じて止まなかったのである。
 
 焼き討ちにより、薩摩の江戸屋敷を追われた相楽など24名は翔鳳丸(しょうおうまる)に乗り、江戸から京都を目指し、幕府の軍艦回天丸や咸臨丸(かんりんまる)と戦いながら、翌正月の4日には京都に到着した。渋谷総司らは追っ手との激しい戦いの中でこの船に乗り損ねてしまったので、陸路京都を目指し、正月28日に合流した。
 一方、江戸での一件が大阪城に集結していた幕府側に伝わると、激昂した幕府軍は「薩長討つべし」と怒号し、京都に向けて進軍を始めた。鳥羽・伏見の戦いの始まりである。西郷の作戦は見事に成功した。正月3日のことである。
 しかもこの日、王政復古の大号令が発布され、それまでの摂政、関白、征夷大将軍という職が廃止され、幕府は消滅したが、将軍・慶喜はこれを拒否した。
 相楽たちが京都に到着した4日には、戦いの方向は早くも決しており、6日には大阪城に滞在していた慶喜が、幕府軍艦・開陽丸にて、今度は相楽たちがやってきたコースとは逆に、江戸に向かって退却した。しかも、それに追い討ちをかけるように、朝廷は慶喜追討令を発した。その時点で戊辰戦争がはじまり、幕府は朝敵となり、賊軍となった。
 相楽や渋谷は京都に入るやすぐ西郷隆盛に会い、自分たちが官軍先鋒(せんぽう)として江戸を目指して進軍したいと申し出て了承された。西郷は、さぞ上機嫌だっただろうと思われる。一方、官軍として、また新時代の使者として、江戸に一番乗りを果たす喜びに、相楽と渋谷の胸はどれほど高まっていたことか。
 先鋒部隊の役割とは、本隊が進んでいく目的地に先行して入り、そこで抵抗する者は戦って排除し、恭順の「良民」には官軍を理解、協力させるための宣撫工作を行うというものであった。
 相楽と渋谷は、綾小路俊実(あやのこうじとしざね)、滋野井公寿(しげのいきんひさ)を頭に立てて「赤報隊」という軍を組織、「官軍の先鋒隊である」という太政官発行の勅定書(おすみつき)を受け取った。

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ニセ官軍・赤報隊と戦った信州・上田藩の将兵(洋服に砲身の長い鉄砲を持ち、日本刀、チョンマゲと当時の兵隊の格好がわかる)

 彼らはそのうえ、新政府首脳から、旧幕府領の年貢半減を認めた御達(おたっし)書を貰って、中山道を東へと向かった。官軍はこの中山道と東海道のコースを使って江戸に進撃するが、東海道は既に官軍の手中に入ることが予想されたので、赤報隊は困難と思われる中山道のコースに入った。あとからついてくる本隊は「東山道鎮撫(ちんぶ)総督府」と、ものものしい名乗りであったが、大将である総督は公家で明治維新の大立者である岩倉具視(いわくらともみ)の次男・具定(ともさだ)、参謀には乾退助(いぬいたいすけ)の名もあった。のち「板垣死すとも自由は死せず」の言葉で有名になった、あの板垣退助である。

 相楽、渋谷の赤報隊が触れて歩いた「年貢半減」のお達しは、行く先々の農民に喜ばれた。この「年貢半減」の新しい措置は、農民たちに、新しい時代が「ありがたい時代」であると認識させ、民心を幕府側から引き離す上で、このうえなく効果を発揮した。
 先に述べたように、赤報隊員のほとんどは武士ではなかった。豪農、名主の子弟とはいえ、農民とは身近に暮らしていた。だから、過剰な年貢にあえぎ、食うに事欠く農民たちの生活苦を身にしみて知っていた。彼ら自身が、このお達しをありがたいと思ったに違いない。彼らはこのお達しを誇り高く掲げ、満面に笑みをたたえながら人々に語ったのだ。
 この「年貢半減」のお達しが偽りでなかったことは、実際に、飛騨(岐阜県)高山の旧幕府領で、新政府によって、半減が行われたことでも判る。
 しかし新政府にとって、この政策はすぐに継続不可能となった。というのは、幕府側との戦端を開いてみて、初めて莫大な資金を必要とすることが判ったのである、新政府はその資金を三井や鴻池(こうのいけ)といった京都、大阪の豪商たちの献金に依存しければならなかった。当然、その見返りとして、豪商たちに対して税の軽減や免除といった優遇措置がとられることになる。農民に対する年貢の半減などとんでもないということになった。方針の180度、大転換である。
 そうすると、官軍に先回りして、「年貢半減」を言って歩く赤報隊が、非常に厄介な存在になってしまった。しかも先発隊の彼らが「新政府は年貢を半減にする」と言ったあと、本隊がそれを取り消したのでは、ことが生活に直結する年貢だけに、非常な反発を買うことになる。現に、飛騨の高山では「年貢半減」を取り消したことで大一揆が起きている。そこで、官軍の下した決定は、赤報隊を手っ取り早くニセ官軍に仕立てることだった。

 赤報隊は2月末になって信州下諏訪に到着し、小諸、上田、岩村田などの諸藩との間で小戦闘が始まった。赤報隊にとっては、この戦いも天朝にそむく逆徒との戦いであった。ところがこれらの諸藩は赤報隊が到着する直前に太政官から布告により、「ニセ官軍・赤報隊を討伐せよ」と命令されており、既に朝敵ではなく官軍であった。赤報隊は自分たちの知らない間に朝敵にされてしまったのである。
 そうして最後の時がやって来た。3月2日、赤報隊員に下諏訪に本陣を置いていた東山道総督府に出頭するようにとの通達があった。そこで、相楽と渋谷など60名が捕縛され、諏訪神社の並木に縛りつけられた。氷雨の降る寒い日であった。翌3月3日、前日の氷雨はまだ降り続いていた。赤報隊員は飲食も与えられずに極寒の中に放置されていたが、その日の夕方、相楽、渋谷ら幹部8人が町外れの刑場に引き立てられ、罪人として斬首された。首は街道にさらされ、罪状は「官軍の名をかたった強盗無頼の徒」と簡単に表示された。しかし、その簡単な表示に、赤報隊そのものが存在しなかったことにしたいという、手前勝手な新政府と官軍の心情が透けて見えるようであった。
 相楽は享年30歳、渋谷は23歳であった。

採用DSC05657
千葉県鎌ヶ谷市佐津間・宝泉院にある渋谷総司の碑

 なお、赤報隊をニセ官軍として消してしまった要因には、上記の「年貢半減」のほかにいくつかの理由が付記されている。
 そのひとつとして、例えば桑名藩では、官軍の先乗りとして到着した赤報隊に対して、家老が飛び出してきて平伏し、うやうやしく恭順の意を表明するといった一幕があった。藩の中でも要職にある家格の武士が、農家の草莽風情に平伏されたのでは、同じ武士である官軍にとっても由々しい問題だ。        赤報隊はこのまま放っておくと江戸まで行ってしまう。すると徳川慶喜までが彼らの前で平伏して恭順を誓ってしまう事態にもなりかねない。早晩、赤報隊はなんかの形で始末されなければならなかったのである。

 彼らの汚名が挽回されたのは、実にそれから61年もあとである。
 赤報隊の隊長であった相楽総三の孫亀太郎が、仏壇の中に血糊が乾いてカチカチになった祖父のマゲを発見した日から始まった必死の努力によって、昭和3年(1928年)に相楽総三と渋谷総司の名誉が回復された。赤報隊結成時に太政官が発行した「官軍の先鋒隊である」との勅定書が決め手となった。
 さらに叙勲が行われ、相楽は正五位、渋谷に従五位が贈られ、翌昭和4年には靖国神社に合祀された。
 ちなみに西郷隆盛は明治10年(1877年)に始まった西南戦争にて朝敵となり、最後は自刃するが、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布にともなう大赦でゆるされ、正三位を追贈されている。相楽、渋谷の名誉回復から考えると40年も早い。しかし、西郷の場合、名誉は回復されたものの、「朝敵」あるいは「賊」という事実は消すことができないので、靖国神社には合祀されていない。


参考資料:畑中雅子 千葉の歴史夜話 他

閑報 お便りをください⇒ここをクリック


女は本当に強い


■今回も面白いお話を有難うございます。これからも色々と聞かせてください。
於三と言い、お鶴婆と言い、昔の女性は本当は強かったのかも知れませんね。大井啓男

■於三さんとヘッツイに隠れていたお婆さんの話、おもしろく拝読しました。
昔の強盗は顔を黒塗り、今の強盗?ヒッタクリはニット帽で顔隠し。
どこかのヒッタクリ強盗がお婆さんに”泥棒!”と叫び追いかけられながら、
そのお婆さんに小指を食いちぎられたという最近のこわ~い、笑い話のような事件を
思い出しました。
昔から女は強し。CAMPESINA

■60号とはすごいですね。一報毎に企画、調査、そして執筆と大変労力を割かれたと思います。感服しました。
今回のレポートは講談で語れそうな逸話ですね。 昔は女性でも武道を習い気丈に悪人と戦った話は各地でありますね。房総地帯は昔の逸話が多いですね。
一つの村の逸話として面白く拝見しました。 谷口

まるで時代劇を見るような

■すごいですね。まるで時代劇の1シーンを見ているようです。
それと、うらさん応援団がたくさんいらしてよかったですね。
これからもお元気でご活躍下さい。
飯田圭子
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