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田園の中のハリストス正教会 (2-7) 

img270.jpg  古い民家だった須賀ハリストス正教会

●須賀ハリストス正教会は千葉県の北総地区に広がる田園の中にひっそりと建っていた。.
正式には八日市場市(現在は匝瑳〔そうさ〕市)の蕪里(かぶさと)という小さな集落である。そのような“日本の田舎”に、ロシア正教の教会があるとは、誰も想像できないにちがいない。しかし、この教会は1890(明治23)年に開かれて以来およそ120年にわたって、地域の人たちに福音を伝え、また維持されてきた。現在でも、毎週日曜日には30人ほどの人々が集まり、農閑期の冬や祭日などには、さらに多くの人々がやってきて、東京・御茶ノ水のニコライ堂から訪ねてくる神父を迎えて礼拝を行っている。集まる人々は近隣の農家の人たちであると言ってよい。
信仰は親子4~5世代にわたり、脈々と受け継がれてきているのである。

●教会の白い建物に接して、古びた長屋門が建っている。一見して江戸時代の名主の家であったことが判るが、教会はこの長屋門の中で、この農家の主、鵜沢修によって創設された。現在、私たちが目にする教会の聖堂は、約10年前に建てられたというが、それまで、教会はその長屋門の中の民家であったのだ。

●日本で最初のハリストス正教会が函館に建設されたのは、江戸時代末期の1858(安政5)年のことであった。だから、須賀ハリストス正教会の発足は、それから32年後のことになる。
 鵜沢修は1854(安政元)年に生まれ、1862(文久2)年、東小笹村(八日市場市→匝瑳市)にあった漢学者・渡辺雄三郎の塾に入門、1867(明治元)年、同塾の塾頭となったが、翌年退塾したという。しかし鵜沢はこのころ山崎勇三郎との出会いがあり、彼とともに道徳の実践躬行に勤めるかたわら、牧師となるきっかけを得た。
 1886(明治19)年、鵜沢修は32歳で洗礼を受け、東京・お茶の水のロシア正教会伝教学校に入学した。
 1890(明治23)年、主教の命に従い屋敷内に塾を開設、これが教会の出発点であった。そのときの信徒数は8名だったという。

●日本とロシアの間には1904年に日露戦争があった。その後も両国の関係は何かと相性が悪いが、ロシアの宗教を信奉することに、村人たちから迫害を受けることはなかったという。これは不断からの信者たちの生活態度が、周辺からの尊敬と信頼を受けていたからにほかならない。
 現在、日本におけるロシア正教の信者数は1万人にも足らないというが、千葉県にはこの須賀と同様の教会が柏市近郊の手賀沼にあるという。

●なお、この教会の宝物は、山下りんが描いた10面に及ぶイコン(聖画)である。これらのイコンは教会創設の時期に、ニコライ・カサートキン主教から送られたもので、現在、千葉県によって有形文化財に指定されている。
 それらの片鱗は、このブログで見ることができるが、次回において、もう少し詳しく説明したいと思う。


最近建てられた教会 DSC02641 005     DSC02642 006 同内部

須賀ハリストス正教会のホームページはこちら

カテゴリ: ロシア正教

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