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神功皇后VS巴御前 (48)   

・・・・・・・・・・ 神功皇后VS巴御前    

たまたま地元のいすみ市文化財保存協会のMさんと、神社やお寺に保存されている絵馬を見てまわる機会があり、最初、御宿町上布施の八幡神社にて、天保9年(1838年)に奉納された神功皇后(じんぐう・こうごう)を描いた絵馬を鑑賞した。(写真A)私がこの絵馬を見るのは、大原に越して来てから三度目である。私と同じように神功皇后に見入っていたMさんは、いすみ市の万木にある妙見尊・三光寺に奉納されている絵馬の中に、この神功皇后の絵馬とよく似た構図の絵馬があり、それは市の教育委員会から「巴御前の絵馬」と判定され、絵馬そのものにも、また、寺の立札にもそのように表示がされているけれども、本当に巴御前なのだろうか?と、私に疑問を打ち明けられたのであった。そこで私たちは、急きょ、万木の三光寺へと車を連ねて直行することになった。
 神功皇后を描いた絵馬は、これ以外にも、いすみ市和泉の飯縄寺(いずなでら)にもあるが、今、ここでいきなり神功皇后の名を挙げても、意味不明なので、こうした絵馬をご紹介しながら、神功皇后や、皇后の傍らにいて、皇后に仕えた武内宿祢(たけのうちのすくね)の概略について、説明をしようと思う。

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(写真A) 御宿町上布施八幡神社の絵馬に描かれている神功皇后
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私は、大原に移転してきた直後、偶然、この八幡神社の横を通りかかり、数多くの絵馬を見て胸を打たれ、写真におさめたいと思ったが、格子状の社殿は厳重に施錠されていて、中に入ることは不可能だった。しかし、その後、2007年に、私は神社の近所の方のご好意で、扉を開けていただき、中の絵馬を全部撮影することができた。
その中の一つが神功皇后と武内宿祢を描いた絵馬であった。
神功皇后も武内宿祢も、712年に編纂された「古事記」と、その10年後に編纂された「日本書紀」に登場するが、両書とも、内容は日本神話であり、書かれている物語は、殆ど同じである。しかし神話の世界はあくまでも神話である。物語も史実に程遠く、創作されたものが多い。、登場人物も古い時代になればなるほど実存性のない架空の人物となってしまう。神功皇后も武内宿祢も実在した人物とはいえない。
 要するに神話の世界は、出土した遺跡や道具類などで裏付けされた考古学や歴史の世界とは違い、真実の話ではない。ところが、明治の近代教育システムが確立されて以降、敗戦の1945(昭和20)年まで、日本では小学校での教育で、歴史(国史といった)は当然のこととして、修身、国語、果ては音楽、習字の教科書に至るまで、この神話で書かれているストーリーが、過去に実際にあった話として、大量に使われていた。当時の小学生は、神功皇后は武内宿祢ともども、実在の人物として教えられていたのである。
 これは、日本を神の国、天皇を神から代々続いた子孫であるとの思想によって、国民精神を形成しようとするものであったが、神話を歴史として教えることは偽りだったので、敗戦を機に、教育の場から一掃された。

 「古事記」によれば、神功皇后は201年から265年にかけて政事(まつりごと)を行ったことになっているが、初代の神武以降の天皇が大和に住居を構えたのに対し、この皇后は現在の福岡市香椎にて政事を行ったことになっている。それは南九州に強い勢力を誇っていた熊襲を討伐するために、九州にやって来た夫の仲哀天皇に皇后が同行していたからである。ところが、この香椎滞在中、“うなばらの神”から皇后を通じて、「海の向うの新羅の国を攻めよ」という神託がくだった。この話を額面通りに受け取ると、神功皇后は神がかりになる女性だったということが判かる。しかし、ここでのキーワードは、神託をくだした神が海の神であり、航海の神であったということである。
一方、夫の仲哀天皇はいたって常識人だったらしく、ご神託だと称する妻の話など信じなかった。皇后が「神のお告げじゃ」と言い張れば言い張るほど、夫の仲哀天皇はシラけるばかりであったが、これには“うなばらの神”が憤慨し、天皇を誅殺してしまった。一躍、神功皇后は、海を渡っての新羅討伐となる。これには、うなばらの神の意向だったので、海のけものや魚たちも協力し、皇后軍の船を下から支え、大喜びで
新羅へと運んだという。


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(写真B)いすみ市岬町和泉の飯縄寺にある神功皇后の絵馬

この時、皇后は応神天皇をみごもっていたが、出陣中に出産というわけにもいかないので、お腹に石を当ててさらしを巻き、冷やすことで出産を遅らせた。従って、皇后の出産は、新羅からの帰国後のことで、生んだ場所は、今でも福岡市の横に、「宇美」という地名で残っている。ついでながら言うと、宇美の隣に「志免」(しめ)という町がある。これは応神天皇のオシメを取り換えた場所ということになっている。が、地元でこの話をすると嫌われる。
 そこで、話を御宿・上布施八幡宮の絵馬に戻すと、ここで左手に弓を持ち、スクッと立っている女の人が、ここでの話題の神功皇后であり、皇后の右手に座っているのは武内宿祢というお爺さんである。お爺さんの腕には赤い布にくるまれて、応神天皇がすやすやと眠っている。
 応神天皇は全国の八幡神社の祭神だから、この絵馬を御宿・上布施の八幡宮に奉納した人がいたとしても不思議なことではないだろう。
 すこし話が長くなってきたが、ここで、武内宿祢についても、若干触れておきたいと思う。
 この人物は、第12代とされる景行天皇の時に日本書紀に姿を現わす。生年月日は、その次の代の成務天皇と同じだったというエピソードまで作られており、生まれついての忠臣だったという人物設定である。そして16代の仁徳天皇の50年が、この人の日本書紀に姿を現した最後になるが、神話の中では、百歳以上という大長寿の天皇がズラリと勢揃いをしている。それらの天皇の5代にわたって仕えた、この人の年齢は短く見積もっても280歳、中には360歳などという、途方もない説まである。もちろん、このような荒唐無稽な話を信じる人は、昔もいなかったであろうが、武内宿祢がお爺さんだったというイメージは、このことで広く定着してしまった。この絵馬の中でも、白髪に白いヒゲを蓄えた老人として、皇后の身近にはべっており、臣・宿祢の面目躍如である。

 続いて、私が神功皇后の絵馬を目にしたのは、大原町に隣接する太東岬の飯縄寺(いづなてら)てあった。(写真B)
この絵馬は、塗料がだいぶはげ落ちていて、ちょっと見にくかったが、やはり、神功皇后と武内宿祢の絵のようであった。しかし、応神天皇は描かれていない。従って、半信半疑のまま、本堂から外に出たが、そこにたまたまご住職の奥さんがおられたので、この絵の人物について質問をしかけると、「神功皇后」という返事を先にいただいてしまった。そこで、私は再び本堂にとって返し、この絵馬をさらに観察した。すると、絵馬の左下に「明治15年4月再興 当浦地曳聨社 三張網」という文字があることに気がついた。ここで紹介した写真では絵馬の左下隅に板を張ったようになっている部分が見えるが、そこに書かれた文字がそれである。ここには、この絵馬が奉納された趣旨が書かれている。つまり、明治15年4月に、それまで途絶えていた地引網の網本たちの寄り合いが復活したことが語られているのだ。すると、この絵馬からは寄り合いが出来たのを機に、さらなる大漁を願う網本たちの気持ちを読み取ることができる。願う相手は魚をどんどん運んできてくれる海の神様でしかあり得ない。すなわち、この絵馬の女性は神功皇后なのである。

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(写真C)巴御前?いすみ市夷隅・万木・三光寺の絵馬。

 新羅から帰国した神功皇后は応神天皇を生み、さらに大和へと引き上げてくるが、七道の浜(現在の大阪府堺市)に着いたとき、再び神がかりになってしまった。とりついた神は、今度も“うなばらの神”であった。その神託に従って建てられたのが、現在まで続く住吉大社である。のちに神功皇后もここに祀られ、海の神として信仰を集めるようになった。
 この飯縄寺の絵馬では、応神天皇の母としての神功皇后よりも、海の神としての信仰心のほうが、強く表現されていると思う。

 そして、最後に万木・三光寺の絵馬である。(写真C)・
 この絵馬は先述のように、「巴御前」として紹介されているが、女性の右手に座っているのは白髪白ヒゲの爺さんであり、これは武内宿祢以外の何者でもない。しかも、この老人は手にしっかりと赤ん坊を抱いており、これは、どうみても応神天皇の設定である。しかも、御宿・上布施・八幡宮、絵馬の描きかたよりも、宿祢の抱いているのが人間の赤ん坊、つまり応神天皇であることが判りやすい。
 確実に言えることは、この絵馬を描いた絵師の脳裏にあったことは、神功皇后の絵を描くことだったということである。
 なお、私自身は、まだ、巴御前を描いた絵馬を見る機会を得ていない。巴御前は源義仲の妻か愛妾であったが、「色白く髪長く、容顔まことに優れた」女性で、荒馬「春風」に乗って、戦場を駆け抜けた。宇治川の戦場を13騎で脱出したとき、前方に立ちふさがった敵将・畠山重忠をして、「かの者は女に非ず、鬼神にもすぐる」と言わしめ、追討をあきらめさせた勇将だった。そういう華々しい経歴を持つ女性であるから、絵馬もいっぱい描かれていることだと思う。
 ただ、自分の赤ん坊を抱かせたお爺さんを従える巴御前の絵馬というのは、出てこないだろう。


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「閑報」しばらくお休みというお知らせをいただいて、まだあまり日にちもたっていないように感じていたので、「おお、また再開か」と少し驚きました。まあ、それだけ無為に過ごすことのできない働き者だということなのでしょう。同時に体力、気力ともに健在ということでもあるのでしょうから、何よりです。

「平成の日本大変」はまだまだ進行中で、下手をすれば「世界大変」ともなりかねない様相でもありますから、怠け者を決め込んだ小生なども,頭の中だけは「のんびり、だらだら」というわけにもいきません。「なるようにしか、ならん」と開き直りつつも、ともすれば「どうなっていくんかなあ」という方向に思いが向かうのもとめられません。

 地震の日には、九十九里にも何か変調はあったのでしょうか。小生はたまたまあの日、千葉・大多喜のあたりに人の車で出かけていて、その後ほとんど丸一日近く路上にいて、翌日午後に家に帰り着くという目に遭いました。

どうしようもないことですが、せいぜい気をつけてお暮らしください。あまり頑張って働きすぎないように……。

                                         加藤雄志

「閑報」の再開をお慶び申し上げます。これからも楽しみに読ませていただきます。
 石橋山から安房に逃れた頼朝が、どの様にして鎌倉に入ったのか知りませんでした。
 今回の「閑報」も、面白く拝見させていただきました。
 九十九里の伝説が義家の古事にしても頼朝の古事にしても、その地が源氏と関わりのある土地で、そこで安房の源氏を束ねてから鎌倉入りしたのでしょうか。         大井啓男



地震が落ち着いたのは良かったですね。 大変な力作、長文で、頭がしっかりしている時に再度読ませて頂きます。  九十九里浜の名前の由来を知っただけでも、勉強になりました。
                              吉田 裕子 

同じ千葉県民です。 地元市川市の歴史には興味があり、特に頼朝との関わりが多いのに関心があります。
平安の頃、平将門の乱から頼朝、それ以降の陣地取り。    千葉は面白いです。
        しょういっちさん。(趣味人倶楽部)
   

 余震が多いにも拘わらず頑張っていますね。
 九十九里浜と頼朝のお話面白く拝見しました。矢指が浜をはじめ矢指塚、矢指戸などの地名そして箭挿神社などが頼朝や義家などの土地測量の方法から生まれた名前であることを初めて知りました。武家らしい測量であることもほほえましく感じました。房総地方は日本武尊に始まって多くの人物が登場する歴史的に由緒ある地方ですね。  ありがとうございました。  谷口







カテゴリ: 絵馬

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