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<title>閑　　報― Ｅｌ　Ｃａｍｐｏ</title>
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<description>浦松幹雄のブログ(Ａ)</description>
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<title>がんばれ　いすみ鉄道　　　　(３－４)</title>
<description> 　傷舐めあうも他生の縁　　千葉県・外房線の大原から大多喜を経由して上総中野までの２６．８キロをいすみ鉄道が走っている。この鉄道の終点・上総中野にて小湊鉄道に乗り換えれば、内房線の五井へ出ることができるが、もともといすみ鉄道は、大多喜にて現在のＪＲ久留里線と接続し、木更津へ通じる計画であった。そのため、ＪＲ発足前の国鉄時代までは、木更津の「木」と「大原」の「原」を取って、「木原線」と称していた。(写
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<![CDATA[ 　<strong>傷舐めあうも他生の縁　　</strong><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/img947.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/img947s.jpg" alt="上総中野駅のいすみ鉄道（左）と小湊鉄道" border="0" width="120" height="87" /></a><br /><br />千葉県・外房線の大原から大多喜を経由して上総中野までの２６．８キロをいすみ鉄道が走っている。この鉄道の終点・上総中野にて小湊鉄道に乗り換えれば、内房線の五井へ出ることができるが、もともといすみ鉄道は、大多喜にて現在のＪＲ久留里線と接続し、木更津へ通じる計画であった。そのため、ＪＲ発足前の国鉄時代までは、木更津の「木」と「大原」の「原」を取って、「木原線」と称していた。(写真の上をクリックすると大きな画面になります。)<br /><br />　木原線は１９３０（昭和５）年に、国鉄の一支線として、大原、大多喜間が開通し、更に１９３４（昭和９）年には、上総中野（大多喜町）まで路線が延長され、既に内房の五井から南下していた小湊鉄道と接続した。<br />　上総中野は小湊鉄道にとっても終点である。しかし元はといえば、小湊鉄道も上総中野に踏みとどまらず、日蓮の誕生寺への参拝客の輸送を目的として、小湊町（現・鴨川市）までを目指して着工され、そのため、社名も「小湊鉄道」と命名されたが、当時の土木技術の限界や、何よりも先立つものとしての資金がショートしてしまったため、計画はこの山の中で立ち往生してしまった。従って、木原線、小湊鉄道の上総中野での出会いは、いわば、計画が挫折した者同士の、同病相憐れむ結果にもなってしまったのである。<br /><br />　計画が実現することなく、目的の地へ行く見通しはなくなってしまったにもかかわらず、それでも路線名や社名に目的地の名称を残すということは、考えようによっては、誇大表示になってしまうが、こうした例は、東京の池袋から群馬県（上州）渋川までを結ぶ計画だった東上線が、埼玉県の寄居で計画がストップしたにもかかわらず、いまなお、東上線と名乗っているのと同じである。<br /><br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/z22.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/z22s.jpg" alt="いすみ鉄道と小湊鉄道、理想と現実。" border="0" width="120" height="109" /></a><strong>いすみ鉄道と小湊鉄道、理想と現実</strong><br /><br />　開業当初の木原線はガソリンカーと呼ばれ、１日８往復、大原、大多喜間を３５分で結んだという。<br />１９３２（昭和７）年、動力は蒸気機関車に代わったが、１９５４（昭和２９）年には、閑散路線用に開発された小型の気動車＝レールバスが導入され、当時の言葉で言えば、「無煙化」が実現した。<br />　１９７２（昭和４７）年には、東京（両国）より大原を通る房総東線が、現在のように外房線と改称され、全線が電化されたが、木原線にはその電化の波が及ばず、気動車のままであった。<br />　しかもその頃、すでに貨物輸送の主役はトラックに奪われ、１９６９（昭和４４）年に、木原線は貨物輸送業務を廃止した。<br />　一方、利用客の方も、マイカーの普及と若年層の都市への流出、少子化などで減少の一途を辿り、１９７９（昭和５４）年には、１日当たりの乗客２０００人未満路線として、国鉄から切り離され、バス路線に切り替えるか、地方自治体へ経営を移行して、第３セクターとして運行するか、それらのいずれでもなければ、廃止という状況に追い込まれてしまった。<br />　国鉄のこのような厳しい態度を受けて、木原線沿線の大原、夷隅（いすみ）、大多喜の各町議会は、相次いで存続の決議を行ったり、住民の総決起大会を開くなりした。続いて、千葉県議会も木原線存続の請願を採決し、運輸大臣に送付した。<br />　存続のメリットとしては、木原線が大多喜高校はじめ、沿線や周辺の市や町に高校が点在しており、通学には必要不可欠なことであった。<br />　１９８１（昭和５６）年、沿線の夷隅郡市からなる木原線特定地方交通線対策協議会は、木原線存続の最低条件である乗客１日２０００人の実現に努力することを決め、「木原線乗車運動」を実施した。<br />　しかし、このような「運動」をしたところで、実際の乗客が増えるわけではなく、数字合わせの域、それも「期間限定」の域を出なかったが、それでも、地元のこのような努力が実を結び、１９８６（昭和６１）年１１月には、地元夷隅郡市の自治体によって運営される第三セクター方式での存続が可能になった。<br />　翌年、国鉄は「国鉄改革法」によって、国鉄から東日本旅客鉄道株式会社、いわゆるＪＲとして民営化されたが、国鉄から切り離された木原線も終焉を迎え、１９８８（昭和６３）年３月２４日を期して、いすみ鉄道として運行されるようになった。ワンマン運転で車両７両、社員は３１名という体制であった。<br /><br /><strong>ひまわりといすみ鉄道</strong>　　<a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/image.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/images.jpg" alt="ひまわり畠の中を往く　いすみ鉄道" border="0" width="120" height="83" /></a><br /><br />　木原線が国鉄から切り離され、いすみ鉄道になった翌年、年号は昭和から平成に変った。要するに木原線が、この千葉県の片田舎である夷隅郡をほぼ横断して、ひたすら走ったのは、いわゆる昭和の最初から最後までであった。<br />　暗い幕切れを、「いすみ鉄道」として、そのまま平成に引きついでしまったが、いすみ鉄道の先行きは決して明るいものとは言えないようである。<br />　同社が２００９（平成２１）年３月に発表した損益計算書に依ると、旅客運賃収入が約９５００万円、それに運輸雑収が約９００万円あって、収入の合計は約１億４００万円である。しかしこれでは、運送費の約１億８９００万円すら賄うことが出来ない。営業費としてはこの後、一般管理費、約４７００万円、諸税、約４００万円、減価償却費、約８００万円と続き、鉄道事業はここまでで、約１億４４００万円の赤字である。<br />　現在、大原から上総中野まで、電車は１日１４往復、大原・大多喜間で２往復、合計で１６往復している。要するに、いすみ鉄道は気動車が１往復するたびに、人件費抜きで約２４、７００円の損失を出している計算になる。<br />　年間の輸送人員は２００７年度での発表ではおおよそ５０万人であった。１日平均約　１３７０人であり、基準であり目標でもある１日２０００人には程遠い。しかも、この数字は、いすみ鉄道が第３セクターとして運行を始めた１９８８年当時の乗客数の４５％に落ち込んでいる。<br />　また、通学の足とされている沿線の高校にも、少子化の波は容赦なく押し寄せ、大多喜高校と大多喜女子高校が合併するなどを一例として、統廃合する高校が見られるようになった。時間の経過とともに、事態は厳しさを加えて来ているのだ。<br />　しかし、こうした赤字を少しでも埋めるため、いすみ鉄道は旅行業や売店経営などの内職にも手を染め、２００９年の３月期決算では、９００万円ばかりの利益を出した他、寄付金や雑収入の営業外収益が約７００万円あり、差し引き経常損失は約１億２８００万円となった。これが地元自治体の負担となり、税金となるわけである。<br /><br />　以上のような困難に加えて、ＪＲからの分離後２０年を迎えたいすみ鉄道は、車両や施設の老朽化を迎え、これらの更新費の問題が近々に出現するといった新しい課題に直面し、経営の先行きに、さらに一段の厳しさが想定されるに至った。<br />　２００７（平成１９）年、千葉県や夷隅郡市自治体（勝浦市、いすみ市、大多喜町、御宿町）によって、有識者を交えた「いすみ鉄道再生会議」が持たれた。会議は半年にわたる検討の結果、いすみ鉄道の今後について「マイカーの普及や少子化などにより利用客が低迷するため、これまでのような経営状況では鉄道を存続させていくことは厳しい」という認識を示しながらも、「一方で高校生など地域住民の重要な交通手段であり、将来的にも観光鉄道として、また高齢化の進展や環境への取り組みの観点からも大きな役割を担っていくものと考えられる」と、ローカル鉄道の存在意義を強調、そして最後に「会社の経営努力や、関係者が一体となった支援が行われれば、将来的には収支の均等を図ることができるとの共通認識を得ることができた」として、当面存続の結論を出した。<br />　観光鉄道としての顧客誘引や乗客数アップの面では、具体策がある筈もないが、会社の経営努力という面では、「上下分離方式」という具体的な方策が提示されている。<br />　上下分離方式とは、線路や車両、駅舎といった施設（インフラ）の面を「下」に見立てて地方自治体が所有し、運行部分を「上」として分社化していすみ鉄道が所有するという方式である。「上」は「下」に対して施設使用料などを支払うが、減価償却や固定資産税の負担がなくなる。<br />　赤字路線として、ＪＲ本体から切り離されたいすみ鉄道が、今度は自分の手で、「下」も切り離そうというわけである。これで経営が好転すれば手品だが、現在のいすみ鉄道の経営は、これによって数字が好転するほど甘くはないし、経営の実態としては、結局、欠損が続くことになる。<br />しかも、そのようなアイディアを採用しようとするところに、いすみ鉄道の苦悩の深さがあるのだ。<br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/200911102031508c8.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/u/r/a/uramatz/200911102031508c8s.jpg" alt="DSC03405 006" border="0" width="120" height="90" /></a><br /><strong>いすみ市国吉の商店街にて　応援する街にも人影がない</strong><br /><br /><br /><br />参考資料：大多喜町史　　大原町史<br />　　　　　　いすみ鉄道株式会社・会社情報<br />　　　　　　いすみ鉄道再生会議<br /><br /><br /> ]]>
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<dc:creator>Michael.</dc:creator>
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<title>（３～３）深堀氏、長崎へ往く</title>
<description> 　千葉県の深堀　　　　長崎県の深堀長崎市街から野母岬に向かう途中に深堀と呼ばれる地名がある。この地名のルーツは、千葉県いすみ市の深堀である。長崎県と千葉県というと、地政学的にも隔たりが多く、唐突な感じがすると思うが、これは史実である。　いきなり古い話で恐縮だが、話は１２２１年に起きた「承久の乱」にさかのぼる。この争乱の発端は、鎌倉幕府の成立によって、政治的にも、経済的にも打撃を受けた朝廷と公家が、
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<![CDATA[ 　<a href="http://blog-imgs-30.fc2.com/u/r/a/uramatz/DSC03307.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-30.fc2.com/u/r/a/uramatz/DSC03307s.jpg" alt="千葉県の深堀" border="0" width="120" height="90" /></a><strong>千葉県の深堀　</strong>　　　<a href="http://blog-imgs-30.fc2.com/u/r/a/uramatz/DSC03306.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-30.fc2.com/u/r/a/uramatz/DSC03306s.jpg" alt="長崎県の深堀" border="0" width="90" height="120" /></a><strong>長崎県の深堀</strong><br /><br /><strong><span style="font-size:x-small;">長崎市街から野母岬に向かう途中に深堀と呼ばれる地名がある。この地名のルーツは、千葉県いすみ市の深堀である。長崎県と千葉県というと、地政学的にも隔たりが多く、唐突な感じがすると思うが、これは史実である。<br /><br />　いきなり古い話で恐縮だが、話は１２２１年に起きた「承久の乱」にさかのぼる。<br />この争乱の発端は、鎌倉幕府の成立によって、政治的にも、経済的にも打撃を受けた朝廷と公家が、１１９９年、源頼朝の死後、幕府側に有力御家人の反乱などの混乱が起きたのをいいことに、一挙に勢力を挽回しようとして、倒幕の兵を挙げたというものであった。中心になったのは後鳥羽上皇であった。<br />　しかし、執権・北条義時を中心とする幕府軍に大敗し、後鳥羽、土御門、順徳の三上皇は配流。それまで保有していた広大な土地は没収されたほか、さらに、朝廷側の動きに不審な点はないかなどと、いちいちチェックするための六波羅探題が設置されるなど、朝廷側は惨憺たる仕打ちを受けるにいたり、勢力は急速に衰えてしまった。<br />　この争乱は、政治の主体が朝廷から武家に移ったという意味で、一つの時代を画した重大な争乱であったと言われている。<br /><br />　ところで、上総国内野郷に居住していた深堀能仲（よしなか）は、この承久の乱において、幕府側として戦ったが、武勲の誉れも高かったので、１２５５(建長７)年、ご褒美として肥前国彼杵郡戸八浦の地頭に任じられて着任。この地を深堀と改めた。<br />　幕府からの動員令に応じ、御家人たちは身命をかけて戦さに参加したが、彼らのこのような行動の背景には、当然、戦後における幕府の恩賞が目当てであった。<br />　忠節を意味するフレーズ、「すわ鎌倉」の裏側である。<br />　しかし能仲の着任は必ずしもスムーズには行かなかったようだ。というのは、瀬野精一郎・長崎県の歴史（山川出版社　１９９０）によると、戸八浦には、在地豪族の戸町氏らが、まだ、がんばっており、深堀氏はその土豪らと抗争を繰り返しながら所領を拡大していかなければならなかったからだ。<br />　<br />　１２７４（文永１１）年、モンゴルの大軍約４万人が戦艦９００艘で対馬に押し寄せ、さらに壱岐、平戸などを荒しまわった末、博多に襲来した。世に言う「弘安の役」である。<br />　この時、能仲の孫・時仲は博多湾沿いに構築された石築地（いしついじ）に出陣して、敵を迎え撃ったほか、既にモンゴルに占拠されていた壱岐に押し渡って奮戦するなど、赫々たる戦果を収めた。<br />　この時も、手柄を立てた御家人たちは、幕府に恩賞を要求したが、この戦さは純然たる「専守防衛」であったので、敵から奪った土地というのがなかった。そのため、恩賞を与えられた者はほとんどいなかったが、時仲には肥前国神埼庄に３町ばかり、恩賞地が与えられている。功績が余程目覚しかったからに違いない。<br /><br />　ところで、千葉県いすみ市深堀の地名については、角川・日本地名大辞典によると「当地が承久の乱に活躍した深堀氏の出所であることによるという説がある」という記述になっている。<br />　この説明は、長崎の深堀についてのものなら、まったくその通りであり、「～という説がある」などと、持ってまわった言い方をする必要もないぐらいである。しかし、千葉に関してはどうであろうか。<br />　同大辞典が上記のような説明で終わっているのも、深堀氏が居住した頃の現在の深堀一帯は先に記したように内野郷と称し、深堀の地名が見えなかったからであると思われる。　<br />　その後、内野郷は内野村となったが、１６７７（延宝５）年に、当地の領主だった阿部正能（まさよし）が物故したため、遺領を三つに分けることになり、内野村の名前は消滅したが、深堀村が他の若山、新田の二村とともに誕生することになった。<br />　このとき、三つの村名の由来を、当時の人が記録しておいてくれていたら、角川の日本地名大辞典の説明も、もっとすっきりとしたものになっていただろうと思う。<br />　一方、深堀氏は、もともと、三浦氏の一族であったが、内野郷に居住した頃は和田姓を名乗っていた。しかし長崎に赴いた能仲の父親の代からは深堀を名乗っている。<br />　すなわち、深堀村が出現する４６０年ほど前に、その深堀で和田氏の分家である一派が「深堀」を名乗っていたのである。<br />　先の角川・日本地名大辞典を忠実に解釈すると、４６０年も前の承久の乱で手柄を立てた地元出身の人物の名が、江戸時代の人々に記憶されていたことになるが、去るものは日々に疎しである。遠い昔に遠く長崎へ去っていった者を、いつまでも覚えていて、それを地名に採用するというようなことは、まず、考えられないと思う。<br />　それよりも、深堀氏が居住した内野郷の中に、深堀と称する地名か場所があったと考えたほうが、無理がないように思われるのだが。<br />　上総国夷隅郡深堀村は、明治になって東海村深堀となり、さらに昭和期に大原町に組み込まれて大原町深堀と変わったが、平成の大合併によって、いすみ市深堀となった。</strong>　</span><br /><br /><a href="http://blog-imgs-30.fc2.com/u/r/a/uramatz/20090617163026c65.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-30.fc2.com/u/r/a/uramatz/20090617163026c65s.jpg" alt="いすみ市深堀にある「深堀氏」碑" border="0" width="120" height="90" /></a><strong>深堀氏のルーツを示す千葉県深堀にある「深堀氏碑」</strong><br /><br />写真は画面をクリックすると大きくなり、右上のXをクリックすると元に戻ります。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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