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手まり歌○一番初めは一宮 

手まり歌○一番初めは一宮


 千葉県いすみ市には「千葉県いすみ環境と文化のさと」と称する自然環境体験施設がある。1995(平成7年)に環境庁の方針によって設置されたもので、敷地は夷隅川流域に沿って周辺の湖沼や山間部に及び、大原、岬、夷隅と、いすみ市の全地域に展開する。その中に「とんぼの沼」や「昆虫の広場」など、いくつものスポットが点在しており、大自然の中に息づく生命の動きや神秘さを私たちに教えてくれる。この「環境と文化のさと」についての詳しいことは、同センターが発信しているブログを紹介するので、それをご覧いただきたい。

いすみ環境と文化のさとここをクリック

 さて、今回の話は、同センターが発行している広報紙「さとのかぜ」第187号に掲載され isumiた「手まり歌」についてである。「一番初めは一宮」で始まるこの歌は、手まり歌でありながら、10番まで巡礼する各地のお宮やお寺の名前が連なる数え歌でもある。
 子供の頃、といっても幼稚園の頃まで、私もよくこの歌を歌ったが、手まりというのは、お手玉やおはじきとともに、もともと「男子禁制」を旨とした女の子の遊びであり、まりをつきながら大声で合唱するのは、どこの街でも路地裏でも女の子の役目と相場は決まっていた。私たち男は、この歌を人前はもとより親の前でも歌うことはなかった。しかし、手まりに興ずる女の子は、家の近所にも多くいたので、私も高校生ごろまでは、この歌を聞くとはなしに聞き、歌詞も覚えた。

 「さとのかぜ」に載った手まり歌は次の通りである。

一番初めは一の宮  二また日光中禅寺
三また佐倉の宗五郎  四また信濃の善光寺
五つは出雲の大社  六つ村々鎮守様
七つ成田の不動様  八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山  十で東京招魂社

 このように書き出してみると、みなさんの中には、自分の知っている手まり歌と、歌詞が違うと思う方が多いのではないかと思う。実は、これを書いているわたしもその一人である。
 しかし、この歌の生い立ちは、 文部省など官によって制定された「小学唱歌」や「国民歌謡」などと違い、庶民の間で生まれ、歌い継がれてきたものである。つまり、親から子へ引き継がれたというわけだが、大体、どこの家庭でも、親というのは生活に忙しく、あまり子供に構っていられないこともあって、「文化の継承」は1世代スキップして、年寄りから孫へというケースが多かったようだ。
  従って、この歌には正式な歌詞や曲といったマニュアルがない。つまりお婆さんの思い込みや思い違いによって、神社やお寺はいかようにも変化したし、さらに、この歌が地域をこえた広がりを見せれば、歌いあげられる神社やお寺も、その地域に合わせいろいろに変わって行ったことが想像される。
 わたしがこの歌に魅かれるのもそのことで、地域の違いに根差した巡礼先神社・仏閣のバリエーションを調べてみたいと思う。しかし、このような研究は既に行われていて書籍や論文は発表されているかもしれない。ただ、怠慢なわたしがそれに行きついていないだけかもしれないのである。もし、皆さんの中に、このような書籍や論文をご存知の方がおられ、教えてくだされば幸甚である。

上総一宮 玉前神社上総一宮 玉前神社 絵を直接クリックすると大きくなります。パソコン右上のXをクリックすると元に戻ります。 

 さて、歌詞のほうに目を移すと、「一番初め」の一宮は、上総一宮こと長生郡一宮町の玉前(たまさき)神社である。「一宮」と呼ばれる神社は全国いたるところにあるので、どこの「一宮」であるか特定しにくい面があったが、三の佐倉の宗五郎や七の成田の不動様と並ぶと、この手まり歌に限っていえば、これは千葉県の立派なご当地ソングになっていることが判る。それに、二の日光中禅寺、四の信濃善光寺も、歌だけ聞いていると、千葉とは何の脈絡のない遠方の寺と思えるが、これが幕末から明治にかけての、村人たちの巡礼の旅の行き先としてとらえてみるとで、この二つのお寺はセットとして組まれており、房総の村々とはきわめて馴染みの深い寺であり、一概に遠い寺ではなかったことが理解できるのだ。このことを裏付けるのは、大原の隣の岬町鴨根・清水寺の欄間や壁面に多数懸けられている巡礼を描いた絵馬である。一枚の絵馬(画板)の中に二つの寺の本堂内部が描かれ、そこで一心に拝んでいるたくさんの信者の姿が描かれている。
 このようなことから、この手まり歌で歌う「一宮」は上総一宮の玉前神社と決めてよい。
 玉前神社の祭神は玉依姫(たまよりひめ)と言って、初代とされる神武天皇の生母である。
 
 続いて手まり歌は、上総一宮からいきなり日光の中禅寺に跳んでしまい、聞き手を面食らわせる。距離の遠近からいえば「佐倉の宗五郎の方が近いが、この歌は数え歌なので、「さ」が「に」の前に来るわけにはいかない。しかし日光の中禅寺とくれば、巡礼はそのまま4の信濃・善光寺に行くが、これも数字の順序に従わざるを得ず、3に戻り、「佐倉の宗五郎」を間に挟む。
 この2番には中禅寺の代わりに東照宮という歌い方もある。同様に3の「佐倉の宗五郎」も「讃岐の金比羅山」と歌われる。わたしも子供のころは「金毘羅山」と歌っていた。ところが後世に至り、世間を少し広く見るようになると、「佐倉の宗五郎」の人気がかなり強いことに気づかされた。しかし、この「佐倉の宗五郎」を挿入して歌ってみると、宗五郎は極めて座りが悪く、違和感もあり、歌全体のバランスも実に悪くなることを感じさせた。
 それは、この手まり歌が神社とお寺を並べた数え歌なのに、宗五郎だけが人名だからである。
 宗五郎を祀るお寺は「宗吾霊堂」と呼ばれているが、正式には東勝寺である。しかし「三は佐倉の東勝寺」と歌ったのでは、何のことだかさっぱり判らない。やはり「宗五郎」とせざるを得ないし、「宗五郎」とすれば、今度は逆に親しみがわく。
 宗吾が神仏に伍して手まり歌に登場するようになったのは、幕末から明治、さらには昭和初期に至るまで、歌舞伎や講談、浪曲などの世界で、悲劇のヒーローとして演じられ、絶大な人気を博してきたからである。
 物語は過酷な年貢の取り立てに泣く領民たちの苦境を救うため、宗吾が藩主に年貢の軽減を求めるが入れられず、やむを得ず将軍へ直訴に及ぶ。願いは聞き入れられ、年貢は軽減されたが、直訴はご法度であり死罪であったため、宗吾は妻子とともに処刑されてしまうというものである。
 その悲劇的な死への同情と自分たちの身代わりになった者への崇敬の念が重なり、宗吾は「歌に歌われた宗吾さま」となった。福沢諭吉は「学問のすすめ・第7編」の中で「古来唯一の忠臣義士」と称賛を惜しまなかった。しかし史実として、この事件を今に伝える資料は、地元の佐倉にはない。
 宗五郎直訴の場面03宗五郎、将軍へ直訴の場面 宗吾霊堂20x240_bcr_FFFFFF 春の宗吾霊堂

 次に「讃岐の金比羅山」であるが、これも香川県であり場所はかなり遠いが、ここの神様は「海の守り神」として、漁師や船乗りたちの信仰を集めてきた。全国的に江戸時代の金比羅参りは伊勢参宮に次いで庶民の憧れであったという。
 大原・日在の玉前神社(一宮の玉前神社とは別)には、金比羅参りを描いた絵馬が多数奉納されており、参詣に出たものが多かったことが判る。
 四の善光寺については、今のところ別の歌い方が見当たらないので、次に進む。
 五の出雲大社については、女の子の手まり歌にふさわしく、縁結びの神として紹介しておこう。
 六は村々の鎮守様となっているが、「天神さん」という歌い方もある。学問の神様として、全国に比較的細かく分布している。
 七の成田の不動様は、成田山新勝寺のご本尊不動明王像のことである。この不動明王像は真言宗の開祖,弘法大師空海が自ら一刀三礼の祈りを込めて刻んだものだという。
 成田山の開山は天慶3年(940年)。それ以来約千年にわたり東国鎮護の寺院として庶民の信仰を集めてきた
 七については「奈良の大仏さん」というのがあり、子供の頃の私の周辺では、もっともこれが歌われていた。さらに法隆寺というのもあるようだ。「奈良七重七堂伽藍八重桜」である。七番目に奈良を持ってくれば、その後に続くお寺に事欠くことはない。
 八の八幡(やわた)の八幡様をどこに特定すべきについては、簡単そうに見えて、実は一番簡単ではない。というのは、この神社はどこの地域にもきめ細かく存在するし、八幡神社の所在を示すものとしての地名もまた多い。
 祭神は応神天皇とその生母の神功皇后、そして、玉前神社にも出てきた玉依姫で、その役割は金比羅山と同じ漁民や船乗りの守り神である。ところが、この神社の展開は別に海辺とは限らない。
 この「八幡の八幡」について、私自身「ここだ」と詮索をしたことはなかったが、今回、この数え歌が千葉県内部の社寺を中心にして連ねたご当地ソングだという前提にこだわるとしたら、それは市川市八幡(やわた)にある葛飾八幡宮ではないかと見当をつけた。
 下総の総鎮守として創建も寛平年間(9世紀後半)と古い。
神社の所在地も八幡、しかも地名の由来でもあり、歌詞の条件を満たしている。しかしこの想定が正しいか否かにつては、更なる検証が必要である。
 九つ高野の高野山は「高野の弘法さん」という歌い方もあるが、これはどちらを歌っても意味は同じである。高野山は弘法大師の修業の場として、弘仁10年(819)年に開かれた。比叡山と並んで、日本仏教の聖地である。
 十は「東京・招魂社」である。他に「二重橋」や「泉岳寺」と歌ったものもある。
 招魂社は明治維新の折の戊辰戦争などの官軍戦死者の霊を祀るため、明治2年(1869)に建設された。当初の呼び名は「招魂場」であった。その後、日本は大きいものでは西南戦争を経験するが、戦争の性格は内戦であり、官軍対賊軍の争いであった。そのため、賊側の戦死者、例えば、会津の白虎隊や鹿児島県の西郷隆盛、桐野利秋といった私学校の戦死者たちは合祀されていない。
 ところが、明治27年(1894)の戦争の相手は清国であり、戦争の性格が変わった。戦争は内戦ではなくなり、戦場もアジア大陸へと拡がった。戦死者の数も桁外れに多くなった。
 10年後、戦端はロシアとの間で開かれた。
 招魂社は明治12年(1879)、靖国神社と改称した。 戦争の性格が変われば、招魂社の性格も役割も変わった。 
 ところでこの手まり歌が歌われるようになったのは、明治後半ということである。つまり、日本国内でゴムが生産されるようになり、玩具としてゴムまりが普及し始めたというのが、この歌の生れ出た時代背景である。
 明治の後半であれば、招魂社は靖国神社と名を変えていたが、手まり歌の方は相変わらず招魂社を歌い継いでおり素朴であった。
 靖国神社では歌詞の中に織り込みにくかったのかもしれないが、当時の庶民感覚としては、招魂社のほうが戦死した近親者への追慕の気持ちが端的に言い表せたのではないだろうか。
★A日光DSC01066_edited-1 1枚の絵馬に中禅寺(右)と善光寺への参詣が描かれている。

 手まり歌はこれで10番までたどり着き、無事、東京へも到着したのであるが、歌は何と、その後も続いた。歌詞は次の通りである。

それまで信心してみたが  浪子の病はなおらない。
武夫がボートに移るとき 浪さん白い真っ白い
ハンカチふりふり  ねえあなた
早く帰ってちょうだいな
再び会えない汽車の窓
鳴いて血を吐くほととぎす
向こう轟々となる汽車は
武夫と浪子の生き別れ。

 女の子がこの歌の10番まで終了し、なおまだ、続きを歌い続けたのを、私が初めて知ったとき、唐突に徳富蘆花・原作の「不如帰」(ほととぎす)であることに驚くとともに、その脈絡のなさにあきれてしまった。 もっとも、私が聞いた「不如帰」は「それまで信心してみたが」の部分が「これほど念願かけたのに」と恨みがこもり、「浪子の病はなおらない」と続いた。
 そしてそのまま、「轟々と行く汽車は、浪子と武夫の生き別れ。
二度と会われぬ汽車の窓、鳴いて血を吐くほととぎす」と続いて、クロージングとなった。ハンカチやボートはなかった。

 浪子の病は労咳(ろうがい=肺結核)であった。この時代のこととて治療薬の開発など、夢のまた夢であり、浪子は海軍少尉・川島武男男爵の横に寄り添い、力なく笑う弱い女性であった。
武男の愛と庇護を得て、幸福な結婚生活を送っていたが、日清戦争が勃発し、武男が出陣するに至り、浪子の幸せも終りを告げた。浪子に庇護者がいなくなったと見て、姑が浪子に結核を理由に離婚を迫るのであった
 迫害と苦難の中、浪子は武男をしたいながら、「あゝ、つらい。つらい。もう女なんぞに生まれはしませんよ」と言いつつ死んでいく。
 小説・「不如帰」の発表は明治31(1898)年から32年にかけてであった。発売早々ベストセラーになり、映画や演劇など、数多く作られた。
 
 手まり歌はこれで終了する。一心に歌い、上手にまりをついてきた女の子は、「鳴いて血を吐くほととぎす」と歌いながら、両手を腰のあたりでふりかざした。すると、まりはスカートの中にスゥと消えて行った。


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泥棒を守る神さま

出雲の国の伝説が東國にまで伝わるのにどれ程の道のり、どれ程の時間がかかったのでしょう?昔の移動方法、伝達方法を想像すると、人の足の力、人の思いの力、現代との違いの大きさを思います。そしてまた、伝える人が消えてしまえば、歴史もまた消えてしまうのですから、歴史や伝説が残り、伝わって行く事は、ほぼ奇跡のように思えます。今回の記事から、そんな事を思いました。中山育美

このところ雷雨でおかしな天気が続きますね。
「泥棒を守る神様」とは面白い逸話があるものですね。
この逸話の出所は古文書にでもあるのでしょうか。   谷口


 『盗賊が信仰した神社』興味深く拝見しました。大変な労作ですね。
 大明神山に1キロの道を気概なくチャレンジできなかったことは残念。      堀田


日本の国造りにかかわる「健市神社」の話、おもしろく拝読しました。

有難うございます。   大井


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泥棒を守る神さま 

.................................................泥棒を守る神さま 

伊藤大仁(だいに)氏が書いた「房総ローカル線・歴史紀行」という本には、千葉県下を走るローカル線沿線の史跡やそれにまつわる物語が多数収録されている。
この本が取り上げるローカル線は全部で8つであるが、2番目には小湊鉄道が登場する。この鉄道は東京湾沿いにある市原市の五井を起点にして、養老川に沿って上総中野まで通じている37.1キロの鉄道である。そして終着駅の上総中野では、太平洋沿岸の大原から来たいすみ鉄道と接続する。以前、書いたことがあるが、もともとこの鉄道は上総中野から太平洋を目指し、日蓮の誕生寺のある小湊に到達する計画であった。そのため、社名も小湊鉄道と名乗ったものであったが、資金が欠乏したため清澄山系に行く手を遮られ、路線は上総中野で中断した。
ところが、世の中はよくしたもので、大原から木更津を目指していた国鉄の木原線が、やはり予算の超過から、計画を縮小せざるを得なくなり、この上総中野にて建設を打ち切ってしまった。木原線は今のいすみ鉄道である。その結果、これら二つの鉄道は何とも辺鄙な田舎の町、上総中野で顔を合わせるが、そのまま逆行してそれぞれの始発駅に帰ってしまう。ここを乗り継いで大原方向に向かう人、その逆に五井方向に向かう人は少なく、駅はいたって閑散としている。

さて、「歴史紀行」の「小湊鉄道」の中で、伊藤氏は郷土史家のFさんと一緒である。五井から小湊鉄道に乗り、各地の史跡を紹介しながら終点の上総中野に着き、そこから、また五井に引き返すのだが、そのとき、次のようなFさんの言葉を紹介した。
「盗賊の信仰厚かったという神社に寄ってみませんか?」
これには私も驚き、興味をかき立てられた。
盗賊が信仰した神社というのは面白い。

伊藤氏の文章は続く。
「そんな神社はこれまで聞いたことがないが、あるのだという。建市(たけし)神社と言うのだそうである。Fさんも話に聞いているだけで、まだ行ったことはないという。
天慶8(884)年の創建と言うからざっと千年(ママ)の昔からある神社である。祭神は建御雷命(たけみかづちのみこと)である」。
古事記・日本書紀は日本の史実を伝えるものではなく、あくまでも古代人の昔ばなしに類した伝承であるが、日本の国の起源にまつわる話については、日本が海外からの渡来勢力によって創られた国であったことが語られている。その話には2系統あって、その一つが「天孫降臨」である。天照大神の孫が一連の輩下を引き連れて、いきなり、日向(ひゅうが―今の宮崎県)の高千穂の峯に空から降りてくる。この勢力はのちに大和(今の奈良県)に攻め込み、逆らう賊を平定して大和朝廷を樹立したことになっている。
もう一つの系統は、出雲(いづも――今の島根県)を支配していた大国主命(おおくにぬしのみこと)による天照大神への「国譲り」の話である。このとき、“いま話題にしている”建御雷命が天照大神の命令で、これも天空から降りて出雲にやって来た。
彼は出雲の海岸で剣を押し立て、大国主命に国譲りを迫ったというから、武力をちらつかせての外交交渉であった。しかもこの一方的な「国譲り」の要求に大国主命の息子・建御名方命(たけみなかたのみこと)が怒り出し、両者の間で争いになった。建御名方命は信濃(今の長野県)の諏訪まで逃げたが、力尽きて投降した。
かくして大国主命は、不本意ながら、自分が治めていた出雲の国を天照大神に“譲る”ことになり、それを最後に死んでしまう。遺言によって出雲大社が建てられた。
一方、建御雷命は国造りの功労者となって尊敬を集める。
ちなみに敗れた大国主命の息子・建御名方命は投降した諏訪の地で神として祀られた。諏訪大社である。各地にある諏訪神社はこの系統である。

再び、伊藤氏の文章に戻る。
「茨城県の鹿島神宮はこの建御雷命をまつっているが、同じ祭神である建市神社はいつの頃からか盗賊たちの保護神になったという。
「建御雷命は大国主命から、『国を奪い取った、それもいやおうなしの強奪だった』。 盗賊たちはそういう解釈をして心服したのかもしれない」。

しかし、実際に盗賊たちの考えはそのような殊勝なものではなく、昔、一面がボーボーの笹藪だったこの神社周辺は、追手の目をくらます泥棒たちの絶好の隠れ場所だったというのである。
伊藤氏の文章の流れから、私は建市神社が上総中野か養老渓谷の近辺に所在するかと思ったが、調べてみると、五井にかなり近い上総三又駅下車約1.9キロという場所にあった。今から4年前のことであったが、私は訪ねてみた。
建市神社は正式には千葉県市原市武士(たけし)にある。「ぶし」と書きながら神社の建市(たけし)と同じ読ませ方をしている。しかも武の神である祭神の性格をも明確に表わしている。
しかし社殿はいたって貧弱だし、境内も「神域」と呼べるような重々しさはなかった。第一、盗賊たちの信仰を集めていたという凄味が感じられないではないか。これでは泥棒たちが逃げ込んで来ても、すぐに捕まってしまうだろう。神社とその周辺の雰囲気に千年前の面影の片りんを求めるのは無理であるとしても、もう少し風格があってもいいのではないか、と私は思った。
私は何となく割り切れない気持ちを抱きながら、この問題を保留にしていたが、最近になって、この神社がもともとこの地にはなく、他所から移動してきていたという事実が判明した。
建市神社
貧弱な建市神社 泥棒も恐らくよけて通るだろう。
画面をクリックすると大型になります。右上のXのクリックで元通り。

建市神社は現在の社殿から約1キロ北に行った大明神山と呼ばれる山中にあったというのだ。
肉体の経年変化に伴い、私もトミに脚力に衰えを見せ、とても1キロの道を歩き、かつ、足元の悪い坂道を登り、山中に分け入る気概がない。
そこで、ここを訪ねた人の探検記を引用させて貰うことにした。
そのパワースポットへの道は幅の狭い小道で人通りは皆無、周囲は樹木や藪が生い茂り、昼なお暗く、非常に不気味、本当に山賊が出てきそうな雰囲気だったというのである。まさに“盗賊の神様”建市神社の伝説が、そこには残っていたのである。
探検記は、次のようなオチをつけて締めくくっている。
「実はこの市原市武士のすぐ南には市原刑務所と市原少年院があるのだが、この故事を知っていて刑務所を作ったのであれば、非常に洒落が効いている。(まあ日本の役所に限ってそんなことはありえないと思うが。)

さて、冒頭の伊藤氏の話に戻って、伊藤氏はFさんの誘いに心ひかれつつも、史跡巡りに疲れを覚えていた伊藤氏は、その誘いを断るのであった。文章に戻る。
「『この次に、丸子廻毛(わにこつむじ)の叛乱を取材するときにしましょう』私はそれまで膝の上に広げっぱなしになっていた地図を閉じた。そして、ふと口にした丸子廻毛という男はどんな男であったろう―.―。武御雷命のようなたくましい男であったろうかと思った」とある。
 大和朝廷によって国を取られてしまった丸目廻毛への連想であろう。廻毛は蝦夷として、「朝廷に服従しなかった俘囚」として、奥羽の地から上総に移住させられたが、農耕生活は狩猟を生業としてきた廻毛のなじむところではなく、結局、盗賊になり、遂には叛乱を起こしてしまうが、嘉祥元(848)年、捕縛され処刑されてしまった。建市神社のできる36年前のことである


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鋳造技術の素晴らしさ
今晩は。 谷口です。
大門の鉄造仏頭は写真から鋳造技術の素晴らしさが理解できます。この技術が鎌倉時代頃であるとは驚きました。房総地域には素晴らしい史物がありますね。  谷口


房総の豊富な歴史に驚く
ご無沙汰致しております。
またまた面白に房州にお話しと大変珍しい鋳鉄の仏頭の来歴有難う御座いました。
大変興味深く拝見しました。
本当に東京から近いのに房州には、こんなに沢山埋もれた歴史があるのに驚いております。
次号を楽しみに致しております。
鈴木 晃


読んでいて清々しい気持ちに
人々の笑顔に迎えられて、夏になれば蛍の集まる場所で、綺麗なお顔の仏頭をご覧に
なられて、良かったですね。読んでいて清々しい気持ちになりました。CAMPESINA


国宝『観音菩薩立像』のお顔にも似た細い目、細い鼻筋、長耳、頸の横皺
国宝『観音菩薩立像』のお顔にも似た、古代のつり上がった細い目、細い鼻筋、長耳、頸の横皺。全身が揃っていれば、それなりの重文だったかもしれませんね。それでも、このようにお堂にしっかりと安置され、保存されている事に価値がありますね。
お耳に穴を開けて、ピアスのように何かぶら下げられているのでしょうか?また、背後の布に書かれている明治38年は、何を意味しているのでしょうか?
浦松さんをこの大日堂へ案内し、鍵を開けて拝ませて下さったのは、大原町教育委員会の方ですか?
いずれも大した質問ではありませんが、ふと伺ってみたくなりました。
今回も素敵な話題をありがとうございました。
中山育美


▲頑迷な石の頭で考えた仏様の鉄の頭について①(中山さんへのお返事)「鉄造仏頭」の取材について、特に教育委員会に同行を依頼したり、レクチャーを受けていません。文中、大原町の教育委員会が立てた石碑の説明文を引用しましたが、これは、大原町史にもなく、これまで探した「鉄造仏頭」の資料の中で、唯一、詳しいものでした。また、「閑報」に掲げた「仏頭」の写真で「明治38年」と書かれた布がありますが、これは大日堂背後にある明治3年の「筆子塚」同様、仏頭とは何の関係もありません。写真には、もう一つ、小さな仏像が写っておりました。、これが近隣の廃寺から持ち込まれた仏像だという、近隣の人の話を紹介しましたが、大日堂の中は雑然と物が置かれ、祭壇としてではなく、むしろ倉庫として機能しているようでした。次に、「仏頭の耳に穴を開けて」云々ですが、穴は仏頭が作られた時から開いていたものです。ピアスが下げられていたかどうかは判りませんが、これは他の類似の仏像など調べると、何か共通項が出てくるかも知れません。
>  最後に、これは私の憶測ですが、この仏頭を祀っていたお寺は戦国時代、あるいは一揆の時代を乗り越えることができなかった。動乱の中で、寺も焼かれ、僧侶たちも殺されたのではないかということです。「人々の記憶にない」ということは、人々もまた、殺され、略奪され、家屋、田畑を荒らされ、他へ逃亡してしまったからではないかと思います。現在、この地に住む人々は、廃墟になった「大門」村に、後から移住してきた人たちの子孫ではないかと思えることです。「憶測の域」に属する話なので、今回は書きませんが、江戸時代に入ると、大原地区でも開墾が奨励され、開墾地への他からの移住が始まります。そうした地域の動きが重なってくると、「憶測」はかなり精度が上がってきて、史実に近づきます。
> 以上、たいへん、とりとめがない書き方で恐縮ですが、ご質問へのお答えとします。
> Mikio URAMATSU


なぜ銅合金ではなく砂鉄で鋳造したのか?
興味深く読ませていただき、貴兄の調査力に感服しています。
仏頭または仏像を銅合金でなく砂鉄で鋳造した意味は何かあるのでしょうか。
タタラ製鉄で日本刀や農機具を作るのと、大きな鋳造物を作るのでは方法が異なるのではないかと思われますし、単に良質な砂鉄を産したと言う理由だけでは無いのではないか。
大きな鋳造物を作るのは鉄よりも銅合金の方が容易だったのではないかと言う気もするのですが、何かご研究がありましたら教えて下さい。大井啓男


▲頑迷な石の頭で考えた仏様の鉄の頭について②(大井啓男氏へのお返事)日本でも金属器使用の歴史は石器から青銅器をまじえつつ鉄器へと移行します。銅の合金の方が鋳造に適していたものの、軽量といった使い勝手のよさや細かな加工に向くといった条件から鉄の方が銅よりも優位であった思われます。しかし青銅製だった仏像を、なぜ鉄に置き換えたかついて、今回は全く調べておりません。

次に「、タタラ製鉄で日本刀や農機具を作るのと、大きな鋳造物を作るのでは方法が異なるのではないかと思われますし、単に良質な砂鉄を産したと言う理由だけでは無いのではないか」とのご指摘ですが、取材中、私も少なからず釈然としなかったこともあり、例えば、房総の高い製鉄技術を買われて、職人が鎌倉大仏建設のためにに招聘されたという話や、九十九里の良質な砂鉄を求めて、大勢の職人が房総にやって来たという地元に残されている話などは、今回カットいたしました。しかし、真相は判っていませんので、今後も調べていくことにします。
Mikio URAMATSU

上総中野駅
上総中野駅(大多喜町):向かって右側が小湊鉄道  左側がいすみ鉄道


















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